2009年1月 1日

KIRINJI@Billboard on Dec. 28 1st stage




2009年になりましたね。

年末年始ととくに何処へ行く予定もない自分なのですが一つだけ心待ちにしていたイベントがありまして、それは12/28に行われたビルボードでのキリンジのライブでした。


結成10周年となる今年を締めくくる最後のライブでしかも場所はビルボード。ビルボードは以前に行ったときにアーティストとの距離の近さに驚いたのですが、今回も高樹氏から2,3mの距離というとても良い位置で彼らの音楽を聴くことができました。

内容については、ライブでは長いこと歌われていなかった"かどわかされて"を聴くことができたり、個人的に好きな曲"タンデム・ラナウェイ"のアレンジが素敵だったりととても満足のできるものでした。

そしてアンコール。

ビルボードのアンコールでの後ろのカーテンを開ける演出は心憎いですね...。徐々に開けていく六本木の夜景をバックに"エイリアンズ"が流れたときは背中がブルブルと震えてしまったくらいに感動的な瞬間でした。


今回もご多分に漏れず飄々とした(いい意味で)渋いセットリストで、個人的にとくに聴きたかった数曲が演奏されなかったことは残念でしたが、そういった愛嬌も含め、改めてこのような素晴らしい音楽を作る兄弟が今のようなスタンスで活動を続けていることを本当に嬉しく思った次第です。

2008年を締めるにふさわしい最高の夜でした。



※セットリスト
01 Music!!!!!!!
02 冬のオルカ
03 僕の心のありったけ
04 タンデム・ラナウェイ
05 かどわかされて
06 フェイバリット
07 星座を睫毛に引っ掛けて
08 冬きたりなば(高樹ソロ)
09 もしもの時は
10 銀砂子のピンボール
11 千年紀末に降る雪は
アンコール
12 エイリアンズ

2008年12月 7日

Michael Haneke

ミヒャエル・ハネケという映画監督がいます。
彼の映画を2,3本立て続けに見てハマってしまい、買ったはいいが長い間放置されていた「ミヒャエル・ハネケ DVD-BOX1」を先日やっと見終わりました。
"感情の氷河化3部作"とのこと。(なんだそりゃ。)

デビュー作から3本続けてみた感想としては、まずブレがないということ。
このDVD-BOXの購入に至るまでで、「隠された記憶」「ファニーゲーム」「タイム・オブ・ザ・ウルフ」と見てきたのですが、何を如何に描くかが一貫しており、作中を貫く緊張感の漂い方が同じような体験をもたらす。狂気と暴力の冷徹な気配に覆われている。
ストーリー上の意味としてのシーンが終了した後の余韻のようなロングカットが印象的で、構図や色味なども含め僕はこの監督の画の作り方がとても好きです。

しかしこの初期の尖った3作を見ると、僕が最初に見た最新作「隠された記憶」のレビューの中で散見された「過去の作品と比べるとちょっとヌルいんじゃない?」というのはわかる気がしました。「隠された記憶」にはストーリー性があり、若干のエンターテイメント性もある。なるほど、最初に「隠された記憶」を見ておいてよかったなぁ、なんて僕なんかは思ってしまいます。いきなりこの3作のテンションだと、それはそれで衝撃的だったかもしれないけれど、あるいはもう他の作品を手に取ろうと思わなかったかもしれないし。

ところで、このDVD BOXの購入に踏み切った大きな理由が各作品に監督の解説があるということで、実際にこれはすごく興味深いものでした。とくに印象に残ったのが「セブンス・コンチネント」についての解説に出てきた「リズム」という言葉。


以下インタビューの字幕抜粋
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こんな次第だ
この事件を物語ることの難しさは...
新聞で記事を読んだ
当然のことながら記者は事件をこと細かに説明していた
取材を重ね--
"父親は借金に苦しんでいた"とか
"妻と性的問題があった"とかくだらない説明だ
説明は... 卑小化する
行為の持つ力を
そういうことだ
最初はこれを従来の技法でどう描けばいいか悩んだが
とても単純なプロトコルを作ろうと考えついた
それがテーマに近づくための私のスタイルとなった

~~~~~~~~

映画に描かれる内容を人は知っている
どんなテーマでもいい ある話を語るなら--
すでにそれを読んでいる
ではいかにして--
観客の心のより深い部分に到達できるのか?
ひとつの可能性は"リズム"だ
映画とはリズムだから
私にとって映画は文学よりもっとずっと音楽に近い

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人々の潜在意識、無意識的な部分にリーチする手段としてのリズム・律動。直感的にとても納得させられました。

ところで、前々から話があった「ファニーゲーム」のハリウッドによるリメイク「Funny Games u.s.」。最初にこの話を知ったときは、あの映画をハリウッドでリメイクなんて...、と思っていたのですが、ハネケ本人によるリメイクということを知ってからは俄然興味津々で、そして気付けば今月20日からシネマライズで公開の予定です。
この作品はハネケ映画にハマるかどうかのリトマス試験紙みたいな作品だと僕は思っていて、けれどそのショッキングな内容上薦める人を非常に選びます。ヴィム・ヴェンダースはカンヌの上映会時に途中で席を立ったとかなんとか。

いやぁ、この映画を見るのにクリスマス以上にふさわしい日はありませんね。(笑)

2008年4月20日

偶然が絶対化する、ということ


「鎌倉と東京湾以外は見たことないから、知らない」
と私は言った。
「エー!
じゃあ、昔はずうっと鎌倉の花火しか知らなかったってことじゃないですか。鎌倉しか知らないのに、『鎌倉が日本一だ』とか何とか言ってたんですかア」
「当然」
と私が言うと、「そういう人じゃないか」と浩介が言った。
「そうじゃなかったら、横浜ベイスターズなんか応援するわけないじゃないか。この人は何でもかんでも自分がたまたま知っていることが一番なんだよ」
「愛するっていうのはそういうことだ」と私は言った。「愛っていうのは、比較検討して選び出すものじゃなくて、偶然が絶対化することなんだよ。誰だって、親から偶然生まれてきて、その親を一番と思うようになっているんだから、それが一番正しい愛のあり方なんだよ」



愛とは偶然が絶対化すること。始めてこの箇所を読んだときにとてもはっとさせられたのを覚えています。

保坂和志の作品は、ゆるい日常を徒然と描く一方でのこうした世界に対する思索の掘り下げが、だらだらとした長い1文の文章と相まってとても心地が良いものになっているのが魅力的だと思っています。そのある意味で対極に位置する両側面-ゆるい日常と思索の掘り下げ-を絶妙なバランスで融合させ、またそれらの器としてのあの長い文章が、描いている何気ない日々のだらだらさと思考というもののだらだらさを巧く表現し吸収しているようで、小説的にもとても魅力あるものになっていると思います。読んでいて流れの中にすっぽりとハマったときには、主人公(とその周りの人物たち)の思考の流れに乗っかっているような感覚になっている気がします。この感じはけっこう独特のものなんじゃないかと。
思索の対象としては、この作品だけでも記憶の在り方や場所の記憶、知覚、などなど"認識"的なことを中心に多岐に及んでいて、また小説以外でも思考の在り方を模索するような本もいくつか出しているなど、独特のスタンスでとても興味深い作家です。


最初の引用に戻って、ぼくはこの箇所を最初に読んだときに妙に納得させられてしまいました。
男女の"愛"について世の中に目をやれば、絶対的な"運命"とやらで"一億人の中からお互いを見つけ出した〜"なんてのはほとんど有り得ない(と思う)ので当たり前なんだけど、その"絶対化してしまう心の在り方"というのを改めて明言され突きつけられたことにがつんときたと言うか。そうなんだよね、と。
...ってまあ、こんなふうに書くとドライな感じで女の子には嫌われちゃいそうですが(笑)、しかしね、それでも偶然が絶対化したものも一億人の中から見つけ出したのと同じくらい、と言うかむしろ後天的である分それ以上に尊いものなんじゃないかと思いますよ、ハイ。ってことで。

2008年3月30日

彫琢のあと


村上春樹の著書に「若い読者のための短編小説案内」というものがあります。
これは村上春樹が、戦後の日本作家の短編小説を毎回1つ取り上げ作品について学生たちと議論を行う、というアメリカの大学院で行った授業について纏めた本なのですが、村上春樹が批評の際に用いていた表現で、ここ最近とくに折に触れて思い出すものがあります。

それは"彫琢のあと"という表現で、取り上げた小説のある部分の描き方について、筆者が意識的に行ったのか無意識的に行ったのか一見どちらにでも解釈できそうに見えるけれど、私(村上春樹)はこの文章の端々に厳しい"彫琢のあと"を明確に見て取ることができるので、この部分について筆者は自覚的・意識的に描いているのだと思う、というように使われていました。
(ちなみに「彫琢」とは、辞書的な意味だと「詩や文章を推敲し、立派なものにすること」です。)


それで以下私感で、"彫琢のあと"ということについて。
例えばあるWebページを見たときに、そのインタフェースが何気なく作られているか、あるいは作り手の厳しい彫琢の末に出来上がっているかということは、純粋な受け手側としては何ら意味を持たない。受け手側としては彫琢うんぬんを意識する必要は全くなく、「使いやすい、魅力的である、心地良い」などということをただ単純に感じればよい。結果としてそのサービスを無意識的にでも使い続けるか、止めてしまうか、に至るだけです。
けれども、これが純粋な受け手側でない場合は話が違ってくる。例えば批評する立場であるとか、または自らも作り手側に回る立場である場合。この場合は、たとえ一見何気なく、使いやすかったり、魅力的であったりするときでも、それが何に起因しているかを考え、そこにある"彫琢のあと"を自覚的に読み解いていく必要がある。それにより自らが作り手側として何かを作る際にそれを反映させることができる。今はまだまだウェブサービス自体が勃興期にあるのでアイデア1発のものも見受けられるけど、円熟期を迎えた創作のジャンルに於いて生き残っていくには、受け手としては彫琢のあとを探り、作り手としては厳しい彫琢を為していかなければならないと思うのです。そしてその2つの能力-読み解く力と作る力-は互いに螺旋状に向上していくものである、と。

なので、村上春樹という一作家が他人の著作物を読む際に"彫琢のあと"を意識しているのは(当たり前だけど)当たり前なんですよね。


最後に、僕が"彫琢のあと"という表現に魅かれた別の理由として。
そもそも「狙ってやっているのか、無意識的にやっているのか際どいけど、結果としてはなんかよい」という微妙感が好きなんだけど、その微妙さに対して、分かる人には分かる"彫琢のあと"が刻まれているってなんかいいよね、と思うのです。我ながらオタク的だな~(笑)。
「さりげなくいい」っていうのが一番かっこいい、って思ってしまう人間なのでね。

2008年3月 2日

クレイマー、クレイマー

何回目かの「クレイマー、クレイマー」を見る。


僕が偉そうに言うのもなんだけど、この映画には"巨匠的な映画哲学"とでも言うべき高尚な何かはとくにない、と思う。テーマは幾度となく繰り返されてきたものであるし、大枠のプロットも至ってシンプル。けれど、僕はこの映画がとても好きだ。

そのこぢんまりとした世界はとても丁寧に作り込まれていることがひしひしと伝わってきて、映画全体がとても暖かいものになっているように思う。職人的な手仕事感が漂っている。古き良き映画の匂いがする。って古き良き映画って何だ?って自分でも思いますが(笑)なんとなくそんな感じです。
80点の100点満点。勝手にこんな点数付けをしている。


ラストシーン、閉まるエレベーター越しのダスティン・ホフマンとメリル・ストリープのアップが交互に写り、そしてエンドロールに切り替わる終わり方がとても好きです。
回を重ねて見るに連れて、あのシーンの残す余韻の心地良さがより一層染み入ってくるようで、想像の余地の与え方が絶妙で巧いなぁと思わされます。

2008年2月17日

そこに在るリアリティ

「生物と無生物のあいだ」を読んでいます。
まだ読み終わっていないのに書評というね。

この本、地元のABCで"タワー"のように平積みにされていて目に留まりました。
元来「平積みにされている新書は手に取るな」というのがマイルールですが(笑)、推薦人に敬愛する内田樹先生がいたこともありパラパラと眺めてみたところ、文章が巧くてとても読ませる。言葉の充て方は厳格でとても知的なのにどことなくノスタルジックで詩的で美しい。文章が魅力的だとヤラれてしまうのです。
ということで購入し読み進めているのですが、いやいやなかなか....。

(とりあえず今まで読んだ部分は)最終的に若き2人の研究者がノーベル賞を獲得するに至るまでに幾人の研究者によって積み重ねられてきた研究の"表側"と"裏側"の歴史を紹介し、"真に表彰されるべき"研究者とは誰なのか、そして"真に貢献した"研究とは何なのかという視点を中心に進む科学人間ドラマのような内容。
実際にノーベル賞を獲得した2人の若き研究者クリックとワトソンは最後においしいところを持っていった漁夫の利でしかない、という筆者(というか生物学研究者全体?)の想いを直接的にこそ書かれてはいないものの行間の節々から感じました。
それと対照的に彼こそが穫るべきだったと思われている(と読んでいて僕が感じた)のがオズワルド・エイブリーという人物で、彼の研究に対する姿勢を表現している一節を以下に引用します。


そして結局、エイブリーが正しく、マスキーは間違っていたのである。エイブリーを支えていたものは一体何だったのであろうか。エイブリーがロックフェラー研究所のホスピタル棟六階の研究室で、肺炎双球菌の形質転換実験に邁進していたのは一九四〇年代初頭から半ば、彼はすでに六十歳を越えていた。もちろん彼は研究室を主宰するプロフェッサーであり、複数のスタッフを擁していたが、彼は自ら試験管を振り、ガラスピペットを操作していた。研究室員はそんなプロフェッサーを、敬意を込めて"フェス"を呼んでいたという。

おそらく終始、エイブリーを支えていたものは、自分の手で振られている試験管の内部で揺れているDNA溶液の手ごたえだったのではないだろうか。DNA試料をここまで純化して、これをR型菌に与えると、S型菌が現れる。このリアリティこそが彼を支えていたのではなかったか。



試験管を振るその背中が見えてくるような一節で、読んでいて涙腺が緩みかけました。

読み進めていく中で、そこに在るリアリティの正体を掴もうともがき、ついにかなわなかった彼の無念を思い辛く切ない気持ちになったのですが、その一方で、そこに確かに何かが在ると自分は感じる、そのリアリティを掴み取ろうと日々を積み重ねた崇高な研究者としての姿勢に心が動かされる思いでした。
幸福とは目的追求の過程にこそある、と落とすとものすごく卑近な話になってしまうし、研究者にとって結論に到達できずに研究を終えてしまうことの無念さを軽んじるつもりはないのですが、それでも、"そこに在るリアリティ"を確かに感じ、その何かと対話する日々はきっと暖かいものに満ちていたんじゃないか、と勝手に思っておくことにしました。

2008年2月 9日

雪だるま

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晩に雪の降った先週の土曜日。
次の日、日曜日の朝に出掛けようとしたときに、可愛らしいものを発見。

大家さんちのちびっ子たちの仕業だと思うけど、心が和みます。


僕は雪が好きです。寒いのが好きです。そして、鮭とじゃがいもが大の好物です。
だから、というわけでもないのだけれど、北海道に住んでみたいと思う。
冬はほくほくのクリームシチューをすすってワカサギ釣りでもしてれば、それだけで幸せな気持ちで生きていけそう。...というのはさすがに冗談だけど、気付くと何故かそれくらい北海道に憧れを抱くようになっていました。

けれども、東京のありとあらゆることの便利さは手放せないものです。あるいはぎゅっと掴まれて、離れられなくなってしまっている、と言う方が正しいかもしれない。
そして何より今僕は東京に住んで日々生きています。
だから、それはなかなかに難しい。残念だけれど。

週明けの月曜日。雪だるまは出掛けるときにも溶けずに残っていました。
北海道はもう少しとっておこう。

2008年1月19日

元気をもらったみたいだ

朝の通勤電車。
窓から閉まりかけた扉の外をぼんやりと眺めていると、大学のときに同じ学科だった子が走ってくる姿が目に飛び込んできた。

彼女はどこに就職したんだっけ。そうかだからこの電車を通勤に利用しているのか、などと考える。この電車に乗れなかったら彼女はあるいは遅刻してしまうのかもしれない。

同じ学科にいながらとくに親しく話をしたこともなく、正直なところ卒業式の日からそのときまで彼女のことをとくに思い出した事もなかったと思う。けれどとても懐かしく、暖かい気持ちになる。


結局彼女は僕の乗っていたその電車には乗れなかった。
ホームに立ち、肩で息をしながら時間を確認する彼女の姿が少しずつ小さくなっていく。


心の中で、がんばれ、と小さく呟いた。
僕はなんだか元気をもらったみたいだ。

2008年1月16日

MacBook Air

Macな人にとっての半年に1度のお祭りが先ほど終了しましたね。

噂通りウルトラポータブルなMacBook Airが出ましたが、まさかここまでとは。
封筒から取り出してみせるパフォーマンスがあったようですが、あの薄さであのスペックはありえるのか...。
詳細な仕様を見るとアラがあるのかもしれませんが、まあいいや。今日は歓喜のまま眠りにつこう...。



There's something in the air.

これまたAppleらしい素敵なコピーだと思いました。

2008年1月13日

LUMINEの広告

渋谷駅のホームで見た広告。


試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。


LUMINEの広告のようで、このコピーと淡白なビジュアル以外には「LUMINE わたしらしくをあたらしく」だけ。
試着室で買うかもしれないその服を着た(着ようとする)瞬間、その服を購入し"その服を着用した私"を想像して、私は何を妄想するか? それは「その服を着た私を誰に見てもらいたいか」に他ならない、と。この場合、私はもちろん女性ですね。

このコピーの素敵さにちょっと胸が震えました。
この女心を掴んだコピーを創作したのが男だったら少し嫉妬するなぁ。


コピーというのは本当におもしろいものだな、と思った次第です。